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斎藤歓之助〈3〉
大村藩の藩校は五教館という。

武道場は治振軒といい、剣術・弓術・槍術からなっている。そのうち剣術道場は約六十坪ほどで微神堂の約三倍の広さがある。五教館の生徒はこの道場で歓之助に徹底的に仕込まれた。



微神堂での歓之助による直接指導は長くは続いてはいない。

安政四年、二十五歳のときに生来の酒豪と不摂生がたたったのか、中風で倒れてしまう。
来藩後四年して病のため自ら稽古をつけることも少なくなり、その後は主として荘勇雄、長井兵庫の両人、のちには柴江運八郎によって代稽古が行われた。
(他の資料では病後も厳しく指導を続けたとするものもある)


※中風
脳卒中⇒脳出血によって、半身または腕・足など身体の一部がマヒして感覚がなくなり、自由が効かなくなる病。





若くして不治の中風で倒れた歓之助は、明治四年の廃藩置県後東京に移住したが、その後は武場に立つことはなく、世を韜晦し、明治三十一年一月三日、六十六歳でその生涯を終えた。




その間のエピソードとして・・・エピソードの域を出ないのだが、大村藩に大兵肥満の士がいて、藩主の前で歓之助に試合を所望したというのがある。

彼は体当たりを得意としていて、それまでの試合でも常に体当たりを試みたが、いかなる剣客も倒されぬ者はいなかった。歓之助と試合をしたときも怒涛のごとき体当たりをくれたのである。
しかし、どのような術を用いたのか「おお!」と歓之助が跳ね返すと、大男が軽石のように吹っ飛んだ。


・・・とあるがこれがいつの頃のことか明確にはわからず、ただこの試合の後に歓之助は消息を絶ち江戸に帰っていることから、それが上記の廃藩置県後のことだとすると、半身不随の身での試合でしかもそれに勝利したということになる。


どんな術を用いたのだろう・・・?(気合?)


ともあれ、斎藤歓之助についてはさまざまな試合やエピソードが喧伝されていて、どこまでが真実かわからないものが多い。


ちなみに、歓之助は二十七歳のときに萩にいる桂さんを訪ねている。


(参考:『大村史談 第二十号』『歴史と旅 平成九年十一月号』)
| イツカ | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
斎藤歓之助〈2〉
帰藩後、上小路の一角に屋敷をもらい私邸を構えた歓之助。
上小路は大村では比較的高禄者が多いところである。


歓之助はこの屋敷内に「微神堂」を設ける。
道場としてはさほど大きくないが、歓之助の道場ということと、道場に掲げられた扁額“微神堂”の文字が安政三筆の一人、市川米庵のものであることとが重なって、一躍その名は全国に轟き、各地から剣豪が訪れるようになった。


『臺山公事蹟』によると安政元年十一月に「微神堂集会の際、多人数にて費用を要すること多きを持って特に斎藤歓之助に年々米二十俵を与ふ」とある。
道場の盛況ぶりと、またその維持費を支給したことがわかる。
さらに同年十二月二十七日、「江戸に於て斎藤弥九郎及びその長子新太郎に館入りを命じ弥九郎に七人扶持を与ふ」ともあり、大村藩がいかに歓之助に武術振興を期待していたか。



歓之助の稽古は凄まじく、短期間で大村藩の剣士たちの稽古内容をまったくもって変えてしまったほどの強烈な猛稽古だった。


なんでも門弟千人余人といわれた藩内各地の剣士たちは、城下へ引っ張り出されるとき、それこそ親族水盃を交わして出席するほどだった。


それまでの木剣あるいは竹刀による、組大刀中心の一刀流や新陰流の稽古にくらべ、稽古の激しさばかりではなく、指導内容がまったく改められたのである。


江戸における無念流の牙城練兵館の稽古が、当時の三大道場の中でもっとも厳しかったように、大村藩の稽古も大同小異であった。
(3へ)
| イツカ | 19:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
斎藤歓之助〈1〉
練兵館の歓之助くんが好きなあまり、わかる範囲で調べてみました!

斎藤歓之助

天保四年(1833年)生まれ。
篤信斎・斎藤弥九郎は六男一女をもうけるが、その三男。
ちなみに長男は新太郎、次男は早世、四男は四郎之助、五男は五郎之助で五男は後年新太郎を名のる。長女は象子(さきこ。のち毛利家の祐筆になる)


六尺をゆうに超えたという歓之助の異名は(突きの)鬼歓または夜叉歓

有備館での新太郎の方言に立腹した来島又兵衛、祖式松助らは主として新陰流の猛者十数名を徒党し江戸に上がり練兵館に乗り込む。
(※小説「修羅の剣」では方言を放ったのは新太郎に随行している藩士のひとりになっている)
このとき九州遊歴中の兄新太郎の代わりに出てきたのが三男の歓之助で、このとき十七歳。
向かってくる相手をことごとく突き伏せる。



歓之助は剣の実力では兄の新太郎を超えた、と言われている。


嘉永七年(1854年)五月十六日
練兵館の塾頭だった荘勇雄(新右衛門)を伴って肥前大村藩に剣術指南役兼物頭で召抱えられる。
翌六月、藩庁は歓之助に禄百石を給し、それまで藩の剣法とされていた一刀流や新陰流を停止する。
翌安政二年八月、歓之助はさらに蔵米五十石の増俸をされる。

大村藩は二万八千石だから、たいへんな厚遇措置。
ちなみにこの年、桂さんは十月に萩に帰っている。

(2へ)
| イツカ | 17:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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