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アーティストの条件
美術家の諏訪敦さんのブログを読んでいたら、アーティストの条件とは「クレバーであること」と仰っていた。
それは決して抜け目なく立ち回ることではなくて、シンプルに作品そのものの内容に対して熟考を重ねる行為と資質、という意味だそうです。

そしてどんな状況でもほんとうに作品に力があれば、大丈夫、だって。


いいなぁ、そこらの批評なんか吹っ飛ばすくらいの力がある作品って・・・
| イツカ | 13:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
演出系か技術系か
暗室教室2回目。

ところで私は仕事で演出をすることもあるのだが、先生いわく「僕の教え方は演出やってる人にはいいでしょう」とのこと。

どういうことかよくわからなかったので他の教え方を聞くと、技術系の焼き方をする人もいて、そういう人は「ちょっとカッコよく」のちょっとの加減がわからなかったり「適当に」の適ってて当たってるところがわからなかったりするかわりに、同じ写真を焼けといったら何枚でも焼けちゃうそう。

確かに上の写真も、人物は黒く、でも後ろの工事現場とのコントラストはくっきり出したい、でも雨の部分はぼわっとぼかして、しかし雨の針のようなラインが出るように・・・とか言いながら何枚も焼いた。


これから夏。
夏は影が強く出る。
そうすると、目指している木戸さんの家の優しい感じは出なくなるかもしれない。
でも夏の顔のひとつだと思って、それもいいかな。
| イツカ | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
明治ファッション事情
いよいよ本格的に明治の服飾事情にハマッてきました。

ミスターロクメイカン井上が主宰した夜会で、集った令嬢たちはバッスル・スタイルというドレスを身に纏いワルツやカドリールを踊ったそうです。

後腰が盛り上がったスタイルのバッスルは、1860年代末にそれまでのドレス、クリノリンによる事故が多発したせいで生まれました。


クリノリンによる事故
クリノリンは『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラが着ているあの豪華なドレス。
スカート部分は最盛期には6mにも及び、膨らみすぎて・・・男性が女性の手を取るのも一苦労になってしまった。
さらに階段や馬車の乗り降りでつまづき怪我が多発、スカートに引火して大火傷を負うという命に関わる事故まで起こってしまった。
命がけのお洒落だったんです。




で、危ないならば横ではなく後ろへとスカートを大きくしたのがバッスル。
また、ヒップラインを大きく見せることは女性を魅力的に魅せることにもつながったようです。



写真や絵で見る限り、スカートは後ろに膨らんでいるものの、けっこう体にフィットするデザインです。
とても素敵で好きですが、井上の奥さんの武子さんなどはかなり小柄だった気がするのだけど、そうすると小柄な人にはこの手の衣服は着こなしが難しそうに思えます。
でも女性だから流行には敏感だったかな。
どうやって着こなしていたのかしら・・・
| イツカ | 18:39 | comments(8) | trackbacks(0) | pookmark |
明治銀座事情
私はもともと純粋な歴史好きじゃなくて、明治大正の風俗と江戸川乱歩と当時のジャーナリストが好きだったんです。
これでよく木戸さんまでたどり着いたものだ。


ジャーナリスト好きゆえに当時の新聞社を調べていたら19もの新聞社が銀座に集中してるんです。
あの徳富蘇峰の『国民新聞』は明治23年に日吉町で創刊。
でも銀座の煉瓦街を無冠の帝王たち(そう呼ばれてたらしい。旧幕臣出身者が多かったからね)が歩き回ってたと思うとドキドキする。


銀座はもともと俗称で、正式名称になったのは明治2年(1869)のことだそう。
わー、木戸さんがまだ生きてる時期だ。
(ほら、歴史に詳しいわけじゃないから木戸さんの生きてる時間軸を中心にしか歴史が見れてない)

だけど木戸さんも煉瓦街をあるいていたのかなぁ・・・

似合う!

似合うよ!


・・・と思ったら本格的に洋風煉瓦造りの街並に変化したのは明治10年以降だって。


ちょっ、10年て・・・・・・(どん底)



気を取り直して、煉瓦街化の直接のきっかけは明治5年2月の大火事。
その復興計画として耐火都市の計画を立案したのが大蔵大輔井上馨東京府知事由利公正


井上って、もしかしたらボルネオの王様誕生の影の立役者になってたかもしれない人なんだけど・・・・・・

どこにでも顔だすなぁ。



井上と由利の立案は、メインストリートの幅を広げ、通りの両側には煉瓦で舗装された歩道を完備、桜・楓・柳・松などの街路樹も植えて、されに41基のガス灯を設置というもの。


素敵だったろうな。


でも国家予算の27分の1、180万円の総工費をかけて造った煉瓦街は当時不評だったそうです。


それでもその後ちゃんと流行の最先端をいく繁華街に変貌を遂げちゃうのだから、井上の感覚ってのはやっぱりめちゃくちゃ鋭いんじゃないかなと思う。

晋作は癇が走ってるって感じだけど井上は癇が鋭いって気がします。
(なんかわかりづらい表現だ。ごめん)
| イツカ | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
開拓使引きずりまわしの旅in東京+川路




GW二日目の昨日はお友達の六連つんと史跡巡りをしてきました〜。

現在、開拓使にハマっている川路ファンの六連つんが散策のコーディネートをしたので、自然と内容も開拓使+川路利良です。


もうこんなに一日に地下鉄乗ったことはない・・・ってくらいメトロ漬けだった。
記録を更新することはしばらくなさそうです(笑)

行った歴史関係の所は、

・警視庁博物館
・青山霊園
・芝公園

です。
以下その模様。ご興味のある方はどうぞw
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| イツカ | 20:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
おおすみ歴史美術館2
栄太郎や井上、やじの書です。
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| イツカ | 03:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
おおすみ歴史美術館1
急遽滞在を一泊延ばした山口旅行。


最終日は、この旅行でどうしても行きたかったところのひとつ、おおすみ歴史美術館へ行ってきました。

美術館に向かう前に訪れた伊藤博文旧宅で横殴りの雨にあい、小雨になってようやくバスで湯田温泉駅まで。松田屋ホテルを横目に見ながら美術館へ向かうと、事前に本で読んでいた通り本当にタクシー会社の二階にありました。
看板が出てなかったらわからなかったと思う。


木戸さん宅、松陰神社、そしてこのおおすみ歴史美術館はこの旅行でもっとも楽しかったです。

伊藤宅でカメラのバッテリーが切れたため、写真を撮ることが出来なかったのだけど、先日、美術館でお話を伺った副館長の江戸様に連絡をして資料と写真を送っていただきました。
掲載を許可してもらえたので日記にUPします。
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| イツカ | 13:57 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
斎藤歓之助〈3〉
大村藩の藩校は五教館という。

武道場は治振軒といい、剣術・弓術・槍術からなっている。そのうち剣術道場は約六十坪ほどで微神堂の約三倍の広さがある。五教館の生徒はこの道場で歓之助に徹底的に仕込まれた。



微神堂での歓之助による直接指導は長くは続いてはいない。

安政四年、二十五歳のときに生来の酒豪と不摂生がたたったのか、中風で倒れてしまう。
来藩後四年して病のため自ら稽古をつけることも少なくなり、その後は主として荘勇雄、長井兵庫の両人、のちには柴江運八郎によって代稽古が行われた。
(他の資料では病後も厳しく指導を続けたとするものもある)


※中風
脳卒中⇒脳出血によって、半身または腕・足など身体の一部がマヒして感覚がなくなり、自由が効かなくなる病。





若くして不治の中風で倒れた歓之助は、明治四年の廃藩置県後東京に移住したが、その後は武場に立つことはなく、世を韜晦し、明治三十一年一月三日、六十六歳でその生涯を終えた。




その間のエピソードとして・・・エピソードの域を出ないのだが、大村藩に大兵肥満の士がいて、藩主の前で歓之助に試合を所望したというのがある。

彼は体当たりを得意としていて、それまでの試合でも常に体当たりを試みたが、いかなる剣客も倒されぬ者はいなかった。歓之助と試合をしたときも怒涛のごとき体当たりをくれたのである。
しかし、どのような術を用いたのか「おお!」と歓之助が跳ね返すと、大男が軽石のように吹っ飛んだ。


・・・とあるがこれがいつの頃のことか明確にはわからず、ただこの試合の後に歓之助は消息を絶ち江戸に帰っていることから、それが上記の廃藩置県後のことだとすると、半身不随の身での試合でしかもそれに勝利したということになる。


どんな術を用いたのだろう・・・?(気合?)


ともあれ、斎藤歓之助についてはさまざまな試合やエピソードが喧伝されていて、どこまでが真実かわからないものが多い。


ちなみに、歓之助は二十七歳のときに萩にいる桂さんを訪ねている。


(参考:『大村史談 第二十号』『歴史と旅 平成九年十一月号』)
| イツカ | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
斎藤歓之助〈2〉
帰藩後、上小路の一角に屋敷をもらい私邸を構えた歓之助。
上小路は大村では比較的高禄者が多いところである。


歓之助はこの屋敷内に「微神堂」を設ける。
道場としてはさほど大きくないが、歓之助の道場ということと、道場に掲げられた扁額“微神堂”の文字が安政三筆の一人、市川米庵のものであることとが重なって、一躍その名は全国に轟き、各地から剣豪が訪れるようになった。


『臺山公事蹟』によると安政元年十一月に「微神堂集会の際、多人数にて費用を要すること多きを持って特に斎藤歓之助に年々米二十俵を与ふ」とある。
道場の盛況ぶりと、またその維持費を支給したことがわかる。
さらに同年十二月二十七日、「江戸に於て斎藤弥九郎及びその長子新太郎に館入りを命じ弥九郎に七人扶持を与ふ」ともあり、大村藩がいかに歓之助に武術振興を期待していたか。



歓之助の稽古は凄まじく、短期間で大村藩の剣士たちの稽古内容をまったくもって変えてしまったほどの強烈な猛稽古だった。


なんでも門弟千人余人といわれた藩内各地の剣士たちは、城下へ引っ張り出されるとき、それこそ親族水盃を交わして出席するほどだった。


それまでの木剣あるいは竹刀による、組大刀中心の一刀流や新陰流の稽古にくらべ、稽古の激しさばかりではなく、指導内容がまったく改められたのである。


江戸における無念流の牙城練兵館の稽古が、当時の三大道場の中でもっとも厳しかったように、大村藩の稽古も大同小異であった。
(3へ)
| イツカ | 19:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
斎藤歓之助〈1〉
練兵館の歓之助くんが好きなあまり、わかる範囲で調べてみました!

斎藤歓之助

天保四年(1833年)生まれ。
篤信斎・斎藤弥九郎は六男一女をもうけるが、その三男。
ちなみに長男は新太郎、次男は早世、四男は四郎之助、五男は五郎之助で五男は後年新太郎を名のる。長女は象子(さきこ。のち毛利家の祐筆になる)


六尺をゆうに超えたという歓之助の異名は(突きの)鬼歓または夜叉歓

有備館での新太郎の方言に立腹した来島又兵衛、祖式松助らは主として新陰流の猛者十数名を徒党し江戸に上がり練兵館に乗り込む。
(※小説「修羅の剣」では方言を放ったのは新太郎に随行している藩士のひとりになっている)
このとき九州遊歴中の兄新太郎の代わりに出てきたのが三男の歓之助で、このとき十七歳。
向かってくる相手をことごとく突き伏せる。



歓之助は剣の実力では兄の新太郎を超えた、と言われている。


嘉永七年(1854年)五月十六日
練兵館の塾頭だった荘勇雄(新右衛門)を伴って肥前大村藩に剣術指南役兼物頭で召抱えられる。
翌六月、藩庁は歓之助に禄百石を給し、それまで藩の剣法とされていた一刀流や新陰流を停止する。
翌安政二年八月、歓之助はさらに蔵米五十石の増俸をされる。

大村藩は二万八千石だから、たいへんな厚遇措置。
ちなみにこの年、桂さんは十月に萩に帰っている。

(2へ)
| イツカ | 17:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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